寛容ということ。

2020年2月6日の朝日新聞「天声人語」より。
「他者を排除せず、意見の違いを認める。そんな寛容な社会を大切にする者への戒めがある。『寛容は自らを守るために不寛容にに対して不寛容たるべきではない』。フランス文学者の渡辺一夫が残した言葉だ。」
 
つまり、自分が寛容であると標榜しているものが「あいつは不寛容であるから許せない」ということの不寛容さを戒めているのだ。いま世界では「不寛容の嵐」が吹き荒れている。硫酸の事件、かけられた方は大学時代の印象はないといい、かけた方の後輩は4回生になってから退学しほかの大学に通っているだ。何が二人の間にあったかは想像に難くない。

さて、アフガニスタン。アメリカは無人機を使いテロの首謀者を殺害したと発表している。ブッシュ政権の時、当時のイラクの元首であるフセインを追い詰めて世界中に晒した。オバマ大統領の時はアルカイダのオサマ・ビン・ラディンを殺害したと歓声を上げていた。そして今回。いいのだろうか。公然と国家が個人を殺害しているのだ。交戦中の国家なら問題はないだろうが、宣戦布告もしていない、まあ相手は国家じゃなのだが、状態で殺害に及んでいるのである。民主国家の代表と標榜している国家が何の裁判も経ず殺害したことが許されるのであろうか。確かに全く無関係な一般に市民をテロの標的にするISは許されるべきではないが、ジョンウェインの時代から何も変わらないアメリカの傲慢さもいかがなものかと。

アルカイダ=悪。ほんとにそうだろうか?非難されることを恐れず言うが、アメリカでもついこの間まで黒人に選挙権がなかったではないか。1965年のだ。女性の選挙権はアメリカでは1920年、日本では1945年に認められた。私たちの国でもこんなものである。ましてやアメリカは当然のこと日本よりもはるか長い文明国としての歴史のあるイスラム圏の、長い習慣、法制度は、そんなにすぐには変えられないのではないであろう。「よきことはカタツムリの速さで動く」だ。西側諸国にとっての非常識が違う文化を持つ国家の常識であることは当然あることで、早急に西側に合わせろと言ったって、いかがなものか。いずれにせよ、銃を捨てることのできる日が来れば女性の権利も変わってくるであろう。それがタリバンの手によるものでもいいではないか。

ここだけの話。タリバンのスポークスマン(名前は覚えられない)、意志の強そうな精悍な目つきをしていますね。ある種のすがすがしさを感じます。しっかりとした意志を感じます。すがはすがでも、我が国の菅さん、目つき顔つきだけで言えばタリバンのお兄ちゃんの方に軍配が上がりそうだ。

注)取扱注意。テロを良しとしているのではありません。女性も蔑視していません。悪しからず。